昭和44年05月15日 夜の御理解
「人間を見下してはならない」
御理解の九十三節の最後のところに、「人間はみな同じように神の氏子じゃに寄って、見下したり汚ながったりしてはならんぞ」と信心さして頂くもの、本当に大事な事だと思いますけれども、見下したり汚ながったり軽ろうみたりする訳ですから。そういう心の状態がおかげを受けられない状態ですから、よくここんところを分からなければいけんですが。先ず自分自身が神の氏子の自覚に立たなきゃならん。神の氏子の自覚と言うてまぁ様々なところから自覚が出来てくるでしょうけど。
なんと言うても自分の無力さ加減。いわゆる「障子一重がままらなぬ人の身」と仰る。又は屑の子の自覚と言う様に、そのう自分の無力さ加減とか、又屑の子の自覚とが出来て始めて、神の氏子の自覚と言うのがあると思うのですが。そこのところが分かっていけば、私は見下したり汚がったりする事がなかろうと、ただ信心しておるから見下したり汚がったりしてはならんと言うだけではやっぱいけん。先ず自分自身がいよいよこの氏子の自覚、神の氏子の自覚。
自分は特別に神様からおかげを受けておると言った様な考えではなくて、いわゆる屑の子の自覚、障子一重がままならぬ人の身であると言う事の自覚。そういう根本的なところから分かっていかなければですね、いわゆるおかげを受けられない心の状態が育ってまいります。それでは大変ですからね。そりゃもう久保山さんがお届けをしとられる中に、純ちゃんが孝太郎君が女の子と遊びよる。こっちから見よった。
綺麗な子じゃろうと言って来た。見たら汚い子。あんたが綺麗な子が好いとるけど、いっちょん綺麗とかはおらんち。だからまぁそう言う様な時から、やはり綺麗なものがよかったり、綺麗でないものを見下したりする訳でございますから、こう言う時からですねなんとかこうそういう人を軽るうみたり、見下したり汚ながったりする様な、芽を摘んでおく方法は無かろうかと思いますね。もうそういうところをひとつ神様にお願いしていかないといけませんね。
どうぞ。